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第30回定期演奏会 曲目解説

W.A.モーツァルト / 歌劇「魔笛」K.620 序曲

『魔笛』(まてき、独: Die Zauberflöte)K.620は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1791年に作曲したジングシュピール(※1)。モーツァルトが生涯の最後に完成させたオペラである。台本は興行主・俳優・歌手のエマヌエル・シカネーダーが自分の一座のために書いた。初演は1791年9月30日、ヴィーデン劇場で行なわれ、大好評を博した。モーツァルトは「アントニオ・サリエリが愛人カヴァリエリとともに公演を聴きに来て大いに賞賛した」という手紙を書いている(10月14日)。同じ年の12月、死の床にあったモーツァルトは時計をみながら当日の上演の進行を気にしていたという。

 作曲された18世紀はヨーロッパでは啓蒙思想が広まり、市民の蜂起が発生、その後18世紀後半から末にかけて発生したアメリカ独立革命やフランス革命といった大規模な革命に発展した。いわゆる市民革命による市民社会への流れ、近代化の始まりである。そんな市民の力が台頭してきた時代に本オペラは作曲された。

□オペラの内容

『魔笛』K.620の台本を書いたシカネーダーの興行は一般市民を対象としており、演目もそれにふさわしく、形式ばらずにわかりやすい物を中心とした。魔笛の各所には聴衆を楽しませる大掛かりな見せ場が盛り込まれている。歌や会話の言語もドイツ語で、レチタティーヴォ(※2)に代えて台詞で筋を進行する、ジングシュピールの形式を用いた。これは上述している市民台頭の時代を反映したものと捉えることもできる。物語は「王子によるお姫様の救出劇」で始まるが、どんでん返しの面白さがある。これは別の機会に全編を聴いて頂きたい。

序曲の中身を簡単に説明すると、まず初めに、いかにも勿体をつけるような和音が響く。主部に入るまではゆったりとした進行が続き、主部でアレグロ(訳:速く)のテンポになり、キビキビした刻むようなテーマで始まる。一音一音きっちり弾けているか皆様にはお聴きいただきたい点である。

 

※1 ジングシュピール:ドイツ語による歌芝居や大衆演劇の一形式を指す。モーツァルトは他にも『バスティアンとバスティエンヌ』K.50や『後宮からの誘拐』K.384などのジングシュピールを作曲している。

※2 レチタティーヴォ:歌唱様式の一種。オペラ、カンタータなどの中に置かれるもので、独唱が用いられる、概して大規模な組曲形式の作品の中に現れる。叙唱、朗唱と訳されることもある。

R.Mグリエール / ホルン協奏曲 変ロ長調 作品91

D.ショスタコーヴィチ / 交響曲第5番 ニ短調 作品47

グリエール(1875-1956)はロシアの作曲家で、同世代の作曲家にはラフマニノフやスクリャービンがいます。モスクワ音楽院に学び後に教鞭をとっており、プロコフィエフやハチャトゥリアンに作曲の手ほどきをしています。ショスタコーヴィチのように社会主義リアリズムからの批判に晒されることもなく、ソビエト時代の規範的な作曲家として賞賛された一方、残念ながら今日ではあまり演奏される機会が多くない作曲家でもあります。
今日取り上げるホルン協奏曲は、ボリショイ劇場管弦楽団のベテラン首席ホルン奏者ヴァレリー・ポレフからの提案により作曲されました。グリエールとの出会いから初演に至るまでのポレフの手記がネットでも公開されていますが、ポレフ独奏・作曲者指揮で行われた初演は大変好評であったようです。初演後、グリエールはスコアにポレフへの献呈の辞を書き加えたとか。
曲のつくりとしては、20世紀半ば作曲とは思えないほどロマン派然とした、ある意味「いかにもクラシック」な作風が色濃くなっています。それでいてロシアの民族的なフレーバーを感じさせるところもあり、ホルン協奏曲としては独特の魅力を持つ作品になっています。

第一楽章 Allegro
ソナタ形式。まずオーケストラの総奏で第一主題冒頭による短い前奏があり、独奏ホルンを迎える。改めて第一主題がホルンにより出されると、他の楽器がその一部を反復して緊張感を増していくが一旦収まる。続いてホルンが伸びやかな第二主題を示すと、弦楽器や木管楽器も加わり主旋律と対旋律を交代しながら歌い継ぐ。やがて小太鼓を伴い、第二主題の下降音形と第一主題のフレーズを組み合わせた小コーダで提示部を終える。
展開部では、まずホルンにより第一主題が示されるが、すぐに第二主題をホルンが軽やかに三連符の旋律を演奏する。再び第一主題の展開に戻った後、展開部を締めくくるカデンツァに入る。
再現部では第一主題がオーケストラのみで簡潔に再現された後、ホルンおよび弦・木管により第二主題が展開され、提示部と同様にコーダで楽章を終える。
第二楽章 Andante
三部形式。オーボエの夢見るような序奏に続き、ホルンがゆったりと第一主題を歌いだし、オーケストラがそれを受ける。続いてやや憂いと熱を帯びた第二主題が現れ展開されるが、再び第一主題が総奏で幅広く再現される。オーボエの序奏が再び現れた後、第二主題が断片的に示され、消え入るように終わる。
第三楽章 Moderato - Allegro vivace
クラリネット・ファゴットのユニゾンと金管楽器によるコラールから始まり、舞曲風の第一主題、民謡風の第二主題の3つのテーマが順に展開され繰り返されていく。最後にホルンの独奏から冒頭のコラールがオーケストラの総奏で再現されクライマックスに達すると、テンポを上げ一気呵成に終わる。

 1904年2月に始まった日露戦争は日本軍優勢のまま推移し、帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルグでは戦争反対を訴える民衆が1,000人以上、軍に殺害され るという事件まで起きていた。1905年5月にバルチック艦隊が壊滅的打撃を受けると和平交渉が進み、米国東海岸ポーツマスで講和条約が締結された。サン クト・ペテルブルグでドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチが生まれたのは1906年9月25日のことである。

 1914年6月に始まった第一次世界大戦ではロシアは大兵力を派遣したがドイツ軍に大敗して翌年撤退、その年ショスタコーヴィチはピアノの練習を始める。サンク ト・ペテルブルグ改めペトログラードではデモ、ストライキ、暴動が日常的に発生し、レーニン率いる極左勢力が力をつけ、遂には1917年10月のロシア革 命で皇帝が退位、世界初の社会主義国家が誕生した。

 レーニンが1924年に死去すると、スターリンが後を継ぐ。ショスタコーヴィチは翌年ペテルブルグ音楽院を卒業する。彼は映画音楽や軽音楽にも造詣が深く、 1927年には有名な「二人でお茶を」を4分ほどのオーケストラ曲に編曲し「タヒチ・トロット」として発表している。 1時間以内に編曲するという賭けに勝つため、譜面を書く間を惜しんだのか、木管楽器は一本づつとなっている。実際には45分で完成したという。

 才気走る天才作曲家としてショスタコーヴィチが活躍する一方、スターリンは着々と独裁体制を固めていった。政治的弾圧は日毎に激しさを増し、1934年には何千もの関係者が秘密裁判でそのまま処刑され、更に多くが強制収容所送りとなり銃殺されている。

 凄まじい粛清の嵐が吹き荒れる続ける1936年、ペトログラード改めレニングラードで上演されたショスタコービヴィチのオペラ「マクベス夫人」をスターリン が観賞することになった。始めはおとなしく鑑賞していたスターリンだったが、過激なストーリーと性描写すれすれの曲想に怒りを覚え、途中で退席してしまっ たという。

 舞台袖にいたショスタコーヴィチはどのような気持ちだっただろう。オペラの内容が「危ない」のはわかっていた。だがもしかしたら気に入ってもらえるかもとい う甘さもあったかもしれない。退席の報を聞いたときの恐怖と絶望は、想像するに余りある。粛清に遭って消えていった友人達の顔が脳裏をよぎっただろう。

 共産党新聞「プラウダ」に公式の批判が掲載され、彼の作品の上演が続々と中止される中、ショスタコーヴィチは交響曲4番の初演も自分の意思で中止してしま う。この曲の複雑さと長大さに「何かが違う」と思ったのかもしれない。そして翌1937年11月に全く別の交響曲、第5番を発表するのである。

 

 交響曲第5番、第一楽章 d-moll、4/4 Moderato、ソナタ形式、演奏時間約15分。鋭いリズムで上昇と下降を繰り返す第1主題と、幅広く優しい第2主題が交錯する。展開部で二つの主題が同時に現れるシーンは圧巻だ。チェレスタの静かな上昇半音階で閉じる。

 第二楽章は a-moll、3/4 Allegretto、スケルツォ、演奏時間約6分。形どおりのABA形式で、中間部はマーラーのレントラーを彷彿とさせる。 第三楽章は fis-moll、4/4 Largo、二つの副主題を挟んで主旋律が5回繰り返される。演奏時間は約15分。厚い弦楽器の使い方もどこかマーラーを思わせるが、氷のような情熱は ショスタコーヴィチ以外の何ものでもない。

 第四楽章は d-moll、4/4 Allegro ma non troppo、ソナタ形式、演奏時間約12分。加速しながらひたすら上昇する第1主題は、上昇下降を繰り返した一楽章と対称的である。トランペットによる 輝かしい第2主題は、短い再現部でホルンが演奏するとき、これが一楽章第2主題への回答であったことがわかる。小太鼓に乗って第1主題が現れるとフィナー レは近い。A音が127回叩きつけられる中、堂々とした金管のD音とティンパニで終わる。

 

 初演は大成功だったという。ショスタコーヴィチは揉みくちゃにされた。だが彼には驚きではなかったかもしれない。体制迎合的と言われようが軽佻浮薄と言わ れようが、ベートーベンが確立した苦悩から歓喜へという明快な古典形式は正しかったのだ。多くの偉大なことが完結するときのように、彼には成功が見えてい たに違いない。当のベートーベンも、耳が聴こえなくなるという恐怖と絶望に遺書まで書いた直後、あの若々しく希望に満ちた交響曲2番を発表している。恐怖 と絶望を経た人間はいかに強いものか。

 その後のショスタコーヴィチはスターリン賞を何度も受賞し、ロシア人民芸術家の称号も得る。第二次世界大戦中には、ドイツと再び闘った故郷サンクト・ペテル ブルグに思いを馳せたであろう、交響曲7番「レニングラード」を書いた。1953年のスターリン死後も交響曲を書き続け、生涯で15曲の交響曲を残してい る。 芥川也寸志は1954年に密入国同然にモスクワに入り、ショスタコーヴィチに会っている。そして後年、解禁となったあの交響曲4番の日本初演を行なうので ある。

 1975 年3月、東海道・山陽新幹線の博多駅が開業した。同年4月、東西の代理戦争とも呼ばれたベトナム戦争終結。7月にはソ連のソユーズ19号とアメリカのアポ ロ18号が軌道上でドッキングし、長く続いた冷戦は雪解けを迎えた。全てを見届けたショスタコーヴィチはこの年の8月9日にモスクワで死去。享年68歳。 死因は肺がんだった。

 2017年現在、レニングラードは再びサンクト・ペテルブルグと呼ばれている。

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